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まず、はじめに(4)反戦教育にどっぷり漬かった小学校時代
沖縄が日本に復帰した年(1972年)に生まれた子供のことを、この土地では長いこと「復帰っ子」と呼んでいました。そう呼ばれることに何故か私は誇らしい気持ちを抱いていました。単なる偶然にしろ、特別な称号を与えられたような気でいたのでしょう。それぐらいわたしは、沖縄の学校教育というものにどっぷり漬かって育ちました。

沖縄では、反戦教育というものがとても盛んです。私が子供の頃、毎年6月23日の「*慰霊の日」が近付くと、反戦教育の一つとして「1フィートフィルム」というものを見せられました。そこには米軍が、沖縄での地上戦の様子をフィルムに収めた映像がありました。
ほとんど着のみ着のまま家を追われ、やがては壕すら日本兵に乗っ取られ、幼い子供を連れて逃げまどう母親の姿、米軍に包囲されて死を覚悟で壕から出て来た人々、そういった一般人の様子を沢山とらえていました。

そこからわたしは「沖縄の地上戦においては、敵はアメリカ兵ではなく、むしろ日本兵だった」というメッセージを受け、衝撃を受けました。今にして思えば、あれは米軍が作ったフィルムなのですから、自分達に都合よく作っていただけだったのかもしれませんが、小学生の私にそんなことは知り様がありません。
実際に、アメリカ兵よりむしろ日本兵のほうがずっと怖かった、と言うお年寄りの話を聞いたことがあります。フィルムはどうあれ、日本兵の存在が沖縄の人をより一層窮地に追い込んだのは事実です。

教室でこのフィルムを見たあと、わたしは他の生徒たちが「怖い」とか「酷い」と言い合う中に入れないでいました。参加したところで「お前は違うだろう、あっちの仲間だろう」と言われる気がして恐ろしかったのです。そう言われないためには、自分から積極的に「本土の人間は、なんて酷いことをしてきたんだ!」と言わなければならないと思い、やがてそれを実践するようになります。
そういう経験を繰り返していくうち(沖縄の小学校では、年に何度もそういった特別なカリキュラムを組みましたし、また社会の授業でも、沖縄戦に重点を置いていました)、わたしはいつからか「本土=悪」「沖縄=善」という図式を頭の中で定着させていました。それがきっと、沖縄の子供達と交わる上で、わたし自身を守るための最善の方法だったのでしょう。


*慰霊の日・・・
1945年6月23日、当時の沖縄での最高司令官だった牛島中将が自決した日。この日で沖縄戦は集結したと言われているが、私は小学校の先生に「実際の戦闘活動は9月まで続いた」と教えられている。
| まず、はじめに | 18:01 | comments(4) | trackbacks(0) |
まず、はじめに(3)両親が沖縄で過ごした32年
父は沖縄の人々に受け入れてもらえるよう、必死になって仕事をしました。父と同じ職場にも何人か単身でやって来た本土の人がいましたが、長くは続かず次々と本土へ帰っています。その都度父は、沖縄の人の、本土の人間に対する敵意は相当なものがある、と言っていました。
勿論、その「帰ってしまった人々」がどれほど沖縄の文化や価値観を尊重し、どれぐらいの覚悟で来ていたのかはわかりません。確かなのはそのような摩擦があり長くは居られない状況になった、ということです。
父自身もかなり厳しい態度に曝されているということは聞いていましたが、自分が言い出しっぺとなって家族を沖縄へ連れて来た立場としては簡単に「帰る」という選択をする訳にもいかなかったようです。意地になっていた部分があったこと、そしてこの土地での良い出会いに恵まれて、定年退職を迎えるまで、この土地で仕事を全うしています。

母は、沖縄に来てからはずっと専業主婦を通しました。どこかに勤めれば、沖縄の友人も少しは出来て新しい関係を築くことも出来たのでしょうが、不幸なことに、外で神経をすり減らして帰って来る父はそれを認めませんでした。あまり仲が良くない祖母と二人、友人もいないこの土地で家を守る立場になった母がどれほど孤独だったか想像に難くありません。母は今でも、たまに友達が出来たかと思うと決まって本土出身者で、私や姉達のように肌で沖縄の習慣に触れる機会もなかったため、30年以上住んだこの土地のことを未だによく知りません。
| まず、はじめに | 18:59 | comments(0) | trackbacks(0) |
まず、はじめに(2) 〜 疎外感、昭和40〜50年代
最初に住む事になったのは、那覇市内にある住宅地、首里です。
県内では閑静な住宅地というイメージがある場所ですが、両親が住み始めた頃は、まだ森のようなところだったといいます。私が外で遊び回る年齢になる頃にはもう立派な住宅街だったのですから、あっという間に開発が進んだことが窺えます。1975年の海洋博覧会を機会に、かなり整備されていったのでしょう。

私はそこで、屈託なく育った、という訳ではありませんでした。当時まだ太平洋戦争の記憶を色濃く残しているお年寄りが沢山いて、本土の人間に対しての不信感が根強く、敵意さえ感じられました。
子供の私にその感情を直接ぶつけることは滅多にありませんでしたが(たまーに、ありました)、門前で近所の子供が「ヤマトンチュー!」と大声で叫んで逃げることが日常的にあったのは、やはり彼等の家庭内において、私達一家に対しての好ましくないという思いが語られていたことが想像できます。
(「ヤマトンチュー」は、今では単に「大和の人=本土の人」という意味の言葉ですが、この頃は侮蔑の意味を込めての使い方をすることが多い言葉でした)

↑あくまで、今から二十年ぐらい前の話です。
今はヤマトンチューなんて言葉は滅多に使わないし、ニュアンスも違います。
| まず、はじめに | 20:15 | comments(0) | trackbacks(0) |
まず、はじめに(1)〜 沖縄へ
 今、夕方の六時です。外から帰って来て、コーヒーにはミルクをたっぷり入れて、一息ついています。
 アパートの近くの野球場からは、練習を終えた後もなお居残って黙々とバッティング練習をする球音が聞こえてきます。私の大好きな音です。
 沖縄はもう夏です。簡単ながら衣類の入れ替えを済ませ、加湿器を片づけ、代わりに除湿器を出しました。ドラッグストアに行けば、そろそろ新しい日焼け止めクリームを買わないと、とぼんやり考えます。

私の両親は本土の人間です。沖縄とは全く無縁な生活を営んで来た両親が、本土復帰したばかりの沖縄に住み始めた32年前(1972年)、私は生まれて三ヶ月の赤ん坊でした。
 父が沖縄に新しい職を得て、五年だけやらせてくれと頼まれて、母は未知の土地への移住を渋々承諾したと聞いています。今ならば、学校へ通っている上の子供達のことを考えて父親が単身赴任するのが一般的なのでしょうが、家事が出来ない父にとっては全員で移住するのが当たり前と考えたようです。
 そうして復帰直前の沖縄に、家族に先立って父は単身沖縄入りしたのでした。まだ私が、母のお腹の中にいる時の話です。
 同年九月、生後三ヶ月経ってようやく飛行機に乗ることが許されるようになった私を抱いて、母は上の娘二人と、私の祖母とともに沖縄入りしたのでした。

 ちょっと休みます。続きは多分、また明日。
| まず、はじめに | 23:43 | comments(0) | trackbacks(0) |
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